父子二代が時代とともに育んだメゾン
古くからブルゴーニュワイン取引の重要な拠点であったシャロン・シュール・ソーヌで食品店を営んでいたアントワーヌの父・フランソワは、事業の才あふれる人物で、後にワインブローカー事業を開始。
19世紀当時、鉄道の終着地であり、河川運搬も可能な土地柄から、経済発展目覚ましかったのです。
メルキュレ近郊の農家の娘マリー・フランソワーズとアントワーヌの結婚が、後のワイン商アントナン・ロデの創設のきっかけです。アントワーヌは、彼女の実家がコート・シャロネーズに所有していた広大な土地を引き継ぎます。
ワイン造りを次なる事業と定めると、フィロキセラ寄生虫の災禍に見舞われほぼ壊滅状態に陥る中、迷わず畑への投資を行います。メルキュレは、当時すでに「コート・シャロネーズ最良のワインが産出される村」として認知されていましたし、何より、ブルゴーニュの素晴らしいテロワールが畑を復活させると信じて疑わなかったのです。
それから数年の月日をかけた献身的なケアにより、畑は見事に復活を遂げたのです。
アントワーヌの没後、息子のアントナンが25歳で家業を引き継ぎます。当時、アントナン・ロデのメゾンはワイン商として一目置かれる存在となっていました。16歳から父の下で家業に携わってきたアントナンは、商旅行経験の豊富さを活かし、事業の拡大先として海外へ目を向けます。
主要な品目を打ち出すポスターを製作して広告するなど、当時としては画期的な手法を用いるアントナンの若さと行動力が、クロ・アントナン・ロデの認知を広め、事業をさらなる成功へと導いたのです。
1900年、パリ万博でグランドシルバーメダルを受賞すると、これも広告で周知。メゾン・アントナン・ロデは、メルキュレやブルゴーニュにとどまらず、高品質ワインハウスとして、その名を轟かすこととなるのです。
このように、アントナン・ロデはメルキュレ村に創業し、父と息子のたった二世代にして国際的なワイン商へと発展を遂げたのです。
現在では、ロデ家は経営にかかわっていませんが、メゾンには今なお、生涯をかけて南部ブルゴーニュのぶどう畑を守り抜いたアントナンと彼の父の精神が受け継がれています。